一番の仏恩報謝とは?

  • 2019.01.23 Wednesday
  • 12:00

約1300年前の唐の時代の中国の僧侶

善導大師は、このように言われています。

 

大悲伝普化 (大悲を伝えて普く化す)
真成報仏恩 (真に仏恩報ずるに成る)

 

真実の仏教を伝えて、
すべての人々を信心決定して

絶対の幸福になる所まで導くことは、

一番の仏恩報尽となる、ということです。


そして、まだ絶対の幸福になっていない人は、
真実の仏法を伝えることが、

尊い仏縁となる、ということです。

 

大悲を伝える」とは、

阿弥陀如来のみ心をお伝えするということです。
私達はとにかく自分の気持ちや自分の思い、

悩みを知って貰いたいと
「みのもんた」もやってますが、

そんなことしている暇あったら、
大悲を伝えなさい!!
と言われているのです。

 

普く化す」とは自分の好きな人につたえるのでないのだ。

気のあった人にしか伝えなくていいというものでないです。
すべての人」に伝えないといけないのです。

 

世の中では考えられないです。
鉄道マニアが集まったり、

テニス好きが集まったりしますが、
仏教を伝えようとしますと、

どんな人ともつき合わないといけません。

 

合わない人ともつき合わないといけません。
つき合おうと努力していくと共通点も見えたりしてきて、
どんな人ともつき合うことのできる人になれます。

 

大衆の中に切り込んで仏教を伝えるのです。

仏教を聞けない8つの苦しみ

  • 2019.01.19 Saturday
  • 12:00

仏教を聞けない8つの難を「八難」と言います。

以下の8つです。

 

(1) 在地獄の難
(2) 在餓鬼の難
(3) 在畜生の難
(4) 在長寿天の難
(5) 在辺地の難
(6) 聾盲瘖瘂の難
(7) 世智弁聡の難
(8) 仏前仏後の難

 


在地獄の難」の方が多いです。
借金地獄で苦しんでいる人仏法を聞けません。
また病気で苦しいと言う人もなかなか聞けません。

よく「年取って死が迫ってきたら仏法を真剣に聞けるのでないか!?」
と言う人いますが、年取って癌にでもなったらしんどくて聞けません。
だるくてとても聞く気になれません。

受験生もなかなかそれどころでないと聞けません。

 

逆に楽し過ぎても聞けません。

在長寿天の難」と

在辺地の難」の人は、

楽に溺れて仏教を聞けない人です。

 

在餓鬼の難」というのは、食べるものがなくてそれどころではない人です。

生きるのに精一杯で、生きる意味を考える余裕がありません。

食べ物がたくさんあっても、食べるのが好きで、

仏教に関心がありません。

とにかくお腹を満たすほうが優先順位が高い人です。

 

しかしながら、そんことで存在意義があるのでしょうか?

人間は食べる為に生きているのではなく、

生きるために食べているのです。

 

在畜生の難」というのは動物的な生き方のために仏教が聞けない人です。

動物というのは食べたり出したり、寝たり起きたりの繰り返しで、

生きる意味など考えずにただ生きています。

 

そんな動物的な生き方で構わない人は

仏教が聞けません。

 

しかし、そうやって生きて行くのは何のためなのか、

なんのために生きるのかという疑問が起きるのが人間的です。

本当の生きる意味を考えられるのは、人間に生まれたときだけなのです。

 

その本当の生きる目的が仏教に説かれています。

 

親鸞聖人の御恩報謝の大行

  • 2019.01.16 Wednesday
  • 12:00

親鸞聖人が59歳の時、寝込まれました。

阿弥陀仏から頂いた広大なご恩、どうしたら万分の一なりとも

お返しできるだろうかと、報恩に悩まれたのです。

JUGEMテーマ:浄土真宗

私たちはどうでしょうか。

もう長い間、風邪一つひかずにすんでいる。

親鸞聖人は熱を出されてまでご恩報謝に悩まれたが、
私たちはそこまでなやんだことがあるでしょうか。


祖師聖人 苦難の道に比ぶれば

 懈怠もしげし 我がつとめかな

 

この後まもなく、説法中に倒れました。
「もう限界です。手も震えて書けない」

 

このような布教をしていても

親鸞聖人をお慕いして「懈怠」といわずにおれないのです。

 

中には

「なんで・・・おれはこんなにやっているのに・・。
あいつは何にもしないんだ・・・」
とかいう人いますが、そんな人と比べず、
親鸞聖人を慕って報恩行をさせて頂かないと

申し訳ないです。

 

 

過労死・動燃事業団の野沢さん

  • 2019.01.13 Sunday
  • 12:00

「過労死」といえば、以前、テレビで

動燃事業団で働いていて、倒れた野沢さんという方の

ドキュメンタリーが放送されていました。

 

動燃事業団とは、

動力炉・核燃料開発事業団のことです。

 

日本人は、世界から

ワーカホリック仕事中毒、エコノミックアニマルなどと揶揄され

モーレツ社員などいう言葉もできました。

 

その日本の企業戦士を代表する人が野沢さんでした。

仕事のために生きていた人です。

 

それが、会社のために、世界のために、

それが、自分のために、と世界を駆け

巡り24時間戦った。

 

そして力つきた。

一体これまで何のためにはたいてきたのか

という疑問がおきます。

 

働く意味は何なのか。

世界の人類を幸せにするためと思っていても、

 

2011年に、東日本大震災が起きてからは、

核燃料は危険ということで、

世の中から批判を受ける時代になりました。

 

野沢さんは、一体何のために働いて、生きてきたのでしょうか。

そして、私たちが今やっている仕事も、

将来的に役立つと評価を受け続けるとは限りません。

 

一体私たちの

生きる意味は何なのでしょうか?

忙しい忙しいでどこへ行く

  • 2019.01.09 Wednesday
  • 18:00

師走といえば、先生でさえ、走る忙しい季節で12月のこと。
受験を目前にひかえ、塾や予備校へ走った人も少なくないでしょう。

 

狭い日本そんなに急いでどこへゆく

という標語がかつてありましたが、

あっちでもこっちも車の運転手は急いでいます。

 

信号が青になって、1秒以内で動かなければ、3台後ろの車までから
クラクションがなることもあるから

あわてて走らなければなりません。

 

3分待てば、次の電車がくる山の手線に、

急いで駆け込みドアにはさまれてでも乗車するのが

東京人です。

 

渋谷、ハチ公口前のスクランブル交差点では、

たまに平衡感覚を失い、千鳥足になり、

めまいを感じながら、人ごみの中をすり抜けて急ぐ姿が

毎日みかけられます。

 

みな恐い顔をして小走りに走っています。

一体そんなに走ってどこへ行くのでしょうか?

 

走るときには、どう走るのかという走り方も大切ですが、

どこへ向かって走るのかという目的地が大切です。

 

目的なしに走ったら、走り倒れになってしまうからです。

目的地があって、走り方が出てくるのです。

 

このことは、生きることでも同じです。

生き急いでいる人がたくさんありますが、

そうやって生きて、どこへ行くのでしょうか?

 

なんのために生きるのか

という生きる目的

言葉をかえれば

生きる意味が大切なのです。

 

 

人間は尺取り虫と同じ

  • 2019.01.06 Sunday
  • 20:00

中国の大哲学者である曇鸞という人は、

主著の『浄土論註』に、

私たちの生きている姿をこのように教えられています。

蚇蠖(しゃっ かく)の循環するがごとく、

 蚕繭(さんけん) の自縛するがごとし

蚇蠖」とは尺取り虫のことです。

尺取り虫は、同じ所をぐるぐる回る習性があります。

 

ところが私たちの生きている姿も、

尺取り虫が環の中をまわりつづけて、
やがて命はてるようだといっています。

 

毎日が同じことの繰り返しで

朝起きて、朝ご飯を食べて

仕事へ行って、昼ご飯を食べて、

仕事を終えると帰ってきて夕ご飯を食べて寝る。

 

次の日も、朝起きて、朝ご飯を食べて

仕事へ行って、昼ご飯を食べて、

仕事を終えると帰ってきて夕ご飯を食べて寝る。

 

その次の日、朝起きて、朝ご飯を食べて

仕事へ行って、昼ご飯を食べて、

仕事を終えると帰ってきて夕ご飯を食べて寝る。

 

同じことの繰り返しです。

そうやって命を終わって行きます。

 

 

まるで尺取り虫と同じです。

 

蚕繭(さんけん) の自縛するがごとし

というのは、

蚕繭」とは、かいこのまゆのことです。

かいこは、自分で出した糸によって、

自分をがんじがらめに縛って、

湯玉にねられて死んでしまいます。

 

ちょうどそのように、私たちも、

自分のによって自分を縛って

苦しんで死んで行く、ということです。

 

こんな人生では、なんのために生きるのかわかりません。

その生きる意味の答えは、仏教に教えられているのです。

 

 

 

 

8つの心(八識)とは

  • 2018.12.31 Monday
  • 23:00

仏教では、私たちの心を八つに分けて教えたものを、八識と言います。
その八識とはこの8つの心です。

 

(1)眼識
(2)耳識
(3)鼻識
(4)舌識
(5)身識
(6)意識
(7)末那識
(8)阿頼耶識

 

眼識とは、色とか大きさとかを区別する心。
耳識とは、音を聞き分ける、区別する心。
鼻識とは、においをかぐ、判断する心。
舌識とは、味を判断する、区別する心。
身識とは、感触を区別、判断する心。
これらの五つは前五識と言われ、記憶する事ができません。

 

意識とは、私達の脳。
見た物が赤いと、頭が赤いと命令を発します。
末那識とは、執着。
物事に執着を起こす心。
これはオレのもの、自分のものという心になります。
この心はを造らせます。
オレがオレがと言う心、私がやってやったんだとか。
阿頼耶識は、別名蔵識・業識と言われます。
蔵識の蔵とは大切なものを蓄えるところです。
焼けないし残ります。
自分のした行為が種子となって蓄えられます。
この業種子が縁と結びついて結果が引き起きます。
この結果が因となり縁と結びついて再び結果が引き起きます。
この業種子は、縁と結びつくまで絶対になくならないので
業力不滅と言い、肉体が滅びても業種子は滅びません。
因果が縁と結びついて結果となり、
またその結果が因となって結果を引き起こします。

 

そうやって常に阿頼耶識は変化し続けているので、

「暴流の如し」

といわれます。
業種子は目に見えません。
「年毎に咲くや吉野の山桜き割りてみよ花のありかは」

と言う歌があります。
吉野山は、山が桜か桜が山かといわれるほど、桜の木があります。
春になると咲く桜の花も冬になると、春の陽気と言う縁がないので花は咲かない。
吉野山の桜を見物しようとある冬にきた人がありました。
うわさとは違う桜の木の姿を見た人が
桜の花がどこに咲いているのかと探したが、どこにも見当たりません。

そこで木を一分刻みに切ってみたけれども見当たらなかったが、
ないと言う事ではありません。
春という縁がきたら毎年花が咲くように、常に勢力があります。
ただ見えないだけで存在しています。

仏教に教えられる幸せになる真理とは?

  • 2018.12.28 Friday
  • 12:00

仏教が説き明かした
苦しみの原因と結果、
幸福になる原因と結果の
四つの真理を四聖諦と言います。

 

真理とはいつでもどこでも変わらないことです。

 

それが4つあるから、四聖諦です。

 

それはどんなことかというと、

この4つです。

 

苦諦—果
集諦—因 ⇒迷界
滅諦—果
道諦—因 ⇒悟界

 

苦諦というのは人生は苦なりという真理です。

集諦とは、苦しみの原因を明かした真理です。

滅諦とは、苦しみの滅した世界を明かした真理です。

道諦とは、苦しみを滅する道を明かした真理です。

 

仏教に教えられていることは真理ですが、

苦しみをなくして本当の幸せになる真理です。

 

ですから、仏教に教えられていることは四聖諦なのです。

 

苦しい人生なんのために生きるのか

  • 2018.12.24 Monday
  • 12:00

仏教では、どんな人でも受けなければならない苦しみを

四苦八苦と教えられています。

 

四苦とは、生苦、老苦、病苦、死苦です。

それぞれ、生きる苦しみ、

老いる苦しみ、

病の苦しみ

死ぬ苦しみの4つです。

 

それに4つ加えたものを八苦といいます。

愛別離苦と、

怨憎会苦と

求不得苦と

五陰盛苦の4つです。

 

愛別離苦とは愛が別離することの苦しみです。
すなわち愛するものとわかれる苦です。
失恋で自殺する人さえあります。

 

親が子を失うとか子が親に離れるとか、夫婦、兄弟、友、その他、

死に別れ生き別れ等々いずれもみな耐え難き苦しみが伴います。

 

 

ところが、かかる愛しあい睦みあっているものと別れねばならぬかと思えば、
一方ではまた好ましからぬ人と一緒に住まわねばならぬという苦しみがあります。
これらを怨憎会苦といいます。

いわゆる顔みるのもいやだと思う憎い奴とも一緒にいなければならぬ苦です。

 

次に求不得苦とは、希望の実現されない悩み苦しみであって、
ある者は金を求めて得られず苦しみ、
ある者は地位を求めて苦しみ、
ある者は恋を、美を智を、才を求め、
しかもそのいずれも得られずに苦しんでいます。

 

最後に五陰盛苦とは、肉体があるが故に生じる苦ということです。

四苦八苦を総括したものです。

 

人生というのは、どんな人でも苦しいものですが、

こんな苦しい人生なぜ生きるのか。

やがて必ず死ぬだけであれば、苦しんで死ぬために生きているようなものです。

 

その、

なんのために生きるのかという

本当の生きる意味を教えられたのが仏教です。

 

なくしたものを見つける方法

  • 2018.12.21 Friday
  • 12:00

私の知っている人にいつも捜し物をしているという人がいます。
あるいはどこかに何かを忘れてしまうということがあります。

 

子供の頃に、

「机の上に本を置いていたけれど、母ちゃん片付けたのでないの?」
何かなくなったときに、あいつのせいだこいつのせいだということがあります。

 

その時に捜し物を一生懸命になって探すか、
自分が失ったものに関与する誰かの責任を追及するということはあっても、
そのものを失った私自身のことについて追求するということには
力が入りにくいのです。

 

しかし、世の中には引き寄せの法則というものがあります。

自分の心が望んだものを私たちは引き寄せているのです。

 

ですから、それがなくなった方が自分にとって都合がよかったのかもしれません。

自分の心を反省してみることが大切です。

 

仏教でも、因果応報といわれて、

自分の生みだした運命は、すべて自分のたねまきによると

教えられています。

まかぬ種は生えない、ということです。

 

やがて自分の記憶をたどっていくうちに、

そういえば自分がいつもと違うところに置いたことを

思い出したりして、捜し物が出てくることがあります。

 

なくしたものをしたときは、

自分を反省してみるのが、

一番出てくる可能性が高まります。

 

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